ナマステー(=人=)ラニーです。
まだお子たちが小さかった頃、よく、「人さらいに気をつけなさい」とヒンドゥー教徒のご近所さんから言われたものです。
身代金目当てとかで誘拐するのかな?
と思ってたのですが、よく聞いてみると、「それだけじゃないのよ」と。
聞くと、部族や宗教によっては、赤ん坊を彼らの神様への生贄に捧げるらしく、それも人さらいの原因の一つなのだそうです。
。。。。インド。。。。(=_=)
さすが21世紀になっても紀元前前からの風習が色濃く残る国ですね!←
神様の中には、生贄を好む神様もいることは知っていました。でもそこに捧げられるのは、ヤギとかニワトリといった動物だと私は勝手に思っていたのですが、現実世界は想像を超えてたのですね。。。
ちなみに、イスラム教徒は断食(ラマダーン)明けに羊やヤギ、ラクダ、牛を屠殺し、神様に捧げます。イスラム教で定められた宗教的な祝日で、イード・アル=アドハーと呼びます。アブラハムが息子のイスマエルを彼らの神アッラーへの犠牲として捧げようとした事を世界的に記念する日です。
この話も、近所に住んでたムスリムの友達から聞いた時、「は?」と、当時の私は理解不能でした。
「息子を神さまに捧げただなんて、とっても尊いでしょ?」
と言われても。。。。(=_=;)
でも、何年もインドに住んだ今となっては、なんか、わかるんですよね←
そこまでしてもいいと思う気持ちが。←
さて、神様が一番頭使うというか、気をつかうと言うか、考えるのは、人間に苦難を与える時なのだそうですよ。かわいいかわいい人間(←神様目線)に、その人の魂の向上につながるよう、考えに考えてイベントを投下。(注/中にはずっと昔の過去生でやらかしてしまった罪の償いのためのカルマ(業)なこともあります。)
さて今日ご紹介する民話は、北インド、ウッタラーカンド州、ガルワール地方に伝わるお話📖
最後、ええっ?!?! えっっ?!?!の連続間違いない展開です
ではでは、お楽しみください^^
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サディー
小さな家族があった。父親と母親と娘の3人暮らし。兄弟はなかった。娘のサディーは9つになると嫁にやられた。
サディーは里を思い出すたび、目の前に立ちはだかる大きな山なみを見ると悲しくなるのだった。サディーの里は、大きな山を4つ超えたところにあった。羽があったら飛んでいけるのに。。。。悲しい心をまぎらわそうと、サディーは村に近い山の上に四角い囲いをつくって、その真ん中にシラングの苗木を植えた。サディーは、それを”里の木”とよんだ。草刈りやたきぎ取りに行くといっては、サディーはシラングの苗木のそばへやってくるとすわりこんで里をしのんだ。
やがて、苗木は大きく育ち、枝が張り、木になった。だが、そのあいだ、里のだれもサディーのようすをたずねなかった。サディーはまい日、シラングの木の下にやってくると、泣いた。
”わたしにも兄弟がいたら、むかえに来てくれるのに!”
サディーはあわれな身の上を神に訴えては、泣くのだった。
サディーの里は遠かった。道はけわしく、橋のない川や深い森がたくさんあった。サディーひとりで行けるはずはなかった。姑は返そうとしなかったし、母親もよんでくれなかった。釜のなかでグツグツ煮える米粒のように、サディーは里恋しさに身もだえするのだった。村の嫁たちがむかえの兄弟といっしょに里へ帰っていくすがたを見るたび、サディーの小さな胸は悲しみでいっぱいになった。
”わたしにも兄弟がいたら、里へ帰れるのに!”
サディーは悲しい声でうたうのだった。
うばが訪ねてくるように
春が ふたたびやってきた
なのに わたしはただひとり
春には みんなが会いに来る
わたしに兄弟あったなら
生まれた里へ行けるのに
サディーをかわいそうに思った女神は、ある日、里恋しさに泣き泣きねいってしまったサディーの夢にあらわれて、いった。
「サディー。おまえのねがいを聞きとどけようぞ。弟をひとりさずけよう」
サディーは頭をたれて誓った。
「いつか弟がわたしをむかえに来る日、あなたにいけにえをささげます」
女神はすがたを消した。サディーにとって、それは夢だった。だが、女神の約束はほんとうになった。里に弟が生まれたのだ。母親は娘の名にちなんで、その子をサデーウと名付けた。
サデーウはりこうだった。月を追い、年を追って、大きくなった。ひとりむすこがすくすく育つのを母親は楽しみにしていた。やがて、サデーウは村の仲むつまじい兄弟姉妹を見るたび、考え込むようになった。”おいらにも姉妹がいたらなあ!”そんなある日、母親ははじめて、サデーウに遠く嫁いだ娘の話をした。サデーウは姉に会いたくてたまらなくなった。
サデーウは夢を見た。遠く離れた山の頂に、シラングの木が見える。その下に女がすわっている。サデーウに瓜二つのその女は、「弟よ、弟よ!」とよんでいるのだった。「ねえさん!」とサデーウがよぼうとしたとたん、目がさめた。サデーウはいそいで母親のところへとんでいくと、夢で見たことを話して聞かせた。母親の目がうるんだ。
「だれが知恵をつけたんだい?」
「そんなんじゃないよ、かあさん。ねえさんの村を教えておくれよ、さもないと……」
母親はあわてた。
「村へ行く道にはおそろしいけものがいるし、深い森があるんだよ。だれも道を教えてくれないし、だれも川をわたらせてはくれないよ」
サデーウはいった。
「おいらの目が道を教えてくれるさ。この手と足が川をわたらせてくれるさ。この二本の腕がおそろしいけものをやっつけるさ。神さまがちゃんと守ってくださるよ」
あくる日、サデーウは母親のいうことに耳も貸さずに、姉の住む村をめざして旅立った。けわしい道をふみこえて、とうとうサデーウは、シラングの木の下にたどりついた。白い布に身をつつんだ見知らぬ若者を見て、村びとはサディーにいった。
「あんたにそっくりだよ。弟じゃないのかい?」
「弟!」
その言葉は、サディーの胸に棘のようにするどくつきささった。
サディーはサデーウに会った。サディーの目は涙でいっぱいになった。
“女神がわたしのねがいを聞いてくれたのだ。あす、約束どおりいけにえをささげよう”
あくる日、サディーは、村びとたちとともにいけにえの祭壇をつくった。祭具がととのえられ、儀式がはじまった。呪文(マントラ)が山々にこだまし、いけにえのヤギがつれてこられた。
と、そのとき、天の声がひびいた。
「けもののいけにえはゆるさぬぞ。人間をいけにえにせよ」
“神さまはいったいなにをおもとめなんだ” 村びとはおどろいた。サディーの胸がふるえた。
「では、このわたしがいけにえになります」
「ならぬ!女のいけにえは望まぬ。おまえの弟をささげるのだ」
天の声に、サディーの体はふるえた。
「それはなりません。里の血を断つことはできません。弟はわたしのお客、お客の、命をうばうことはできません」
ふたたび天の声がひびいた。
「では、おまえの子どもをささげるがいい」
サディーは色をうしなった。サディーは幼いふたりのむすこの母だったのだ。また天の声がひびいた。
「いやならよすがいい。だが、おまえは誓った。その誓いをやぶるのか!」
「いいえ!」
サディーはさけんだ。
村びとは、おどろいた。サディーがかわいそうになった。だが、サディーは今や鬼神(チャンディカー)になっていた。ふたりのむすこをそばによぶと、服をぬがせはじめた。
「どうして服をぬぐの?」
「おじさんが新しい服を持ってきてくれたからよ……」
そういいつつ、サディーは渾身の力をこめてむすこの首めがけて刃をふりおろした。ふたりのむすこの首が地面にころがり落ちた。
サディーは、その首をま新しい布にくるむと、家のなかにしまった。あとでもう一度ゆっくり、かわいいむすこの顔をながめてみたかったからだ。サディーはむすこの亡骸を祭壇の上においた。
すると天の声がまた、聞こえてきた。
「サディー!首のないいけにえはゆるさぬぞ。首も持ってくるのだ」
サディーはよろけないように家のなかに入った。見ると、どうだろう、殺したはずのふたりのむすこが、家のなかで遊んでいるではないか!
「みんな神さまがなさることなのだ」
サディーは、ただ神の像の前にぬかずくのだった。
『語りつぐ人々*インドの民話』長弘毅 著訳者 福音館書店 刊 2003.9
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神様にお願いする時、叶えてくださったらこれを差し上げます、的なものなんて、ほとんどの神様には必要なくて、神さまって、ひたすら与えてくださる存在だと私は思っています。例外としておられお世話になったのは、コーラガッジャという、私の住んでいたエリアの土着の神様で、その見返りというかお礼がなんとも面白かったのでこれはまた今度ブログで書こうと思います^^(2020年7月16日追記。コーラガッジャのお話、書きました!)
Goddess Chandika Devi
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