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誰も貧しさのために死ぬべきじゃない。

ナマスカーラ!ラニーです(=人=)

お決まり挨拶、ナマステは主に北で使われるヒンドゥ語ですが、私の住んでいたカルナータカ州だとカンナダ語でナマスカーラ、その下ケララ州だとナマスカーラン(マリヤラム語)、と似てるのに、なぜかその横タミルナドゥ州だとVanakkam(ワナカム!)ってなる南インド〜

とは全く土地位置が違う、今日はウエストベンガル地方コルカタの、ただ『情熱』なんて言葉ではとても言い表すことができない、あるものすごい根性を持った女性をご紹介します。

彼女について私が知ったのは、マイスワミ、Swami Satha Sivomのシェアされてたニュース記事から。

「彼女に敬礼を」と書かれた見出し。『治療費がなかったため23歳で夫を失くし、そして今、彼女は誰もが治療を受けられる無料病院を作った』

どんな女性なのだろう。。。と気になった私は、そのまま様々な記事や記録を探し、読み、まとめてみました。

こんな女性がいるなんて、、、みなさんにも是非、知っていただきたいなと思います。

彼女の名は、スバシニー ミストリー。
貧しい農村の貧しい家族、だなんて簡単に言い尽くせないくらいの貧しさから生まれました。

不幸は、彼女の誕生の瞬間から始まります。

スバシニー ミストリーが生まれたのは、たくさんの農民を死に追いやったベンガル飢饉の時。コルカタの南西約30kmに位置するクルワ村にわずか小さな土地を所有していた農民である彼女の父親は、14人の子供を養うことができませんでした。 彼女の母親は土地を精練し、教会、アシュラム、NGO、官公庁、地域の家主から生き延びるための米を頼みました。しかし次の数年間で、スバシニーの7人の兄弟姉妹は亡くなりました。

12歳で、スバシニーは、生家から1時間半ほど歩いたハンスプクル村に住んでいた農業従事者チャンドラと結婚しました。 彼の稼ぎは1ヶ月200ルピー。 スバシニーは夫と4人の子供たちのために終日料理や家事に追われます。

1971年のある日、スバシニーの夫は痛みで身もだえします。彼女は夫をコルカタのトーリグンデにある地方病院に急ぎ運びました。 しかし夫は無一文だったため、医師と看護師は彼になんの注意も払いませんでした。

診察を拒否されている、とスバシニーは気づきます。夫の状態はどんどん悪化するばかり。その不安はやがて恐怖に変わりました。

インドの政府病院は、貧しい人々に無料で診察サービスを提供することを義務付けられています。しかし現実には、患者は治療を受けるためにお金または人脈が必要でした。

スバシニーの夫は、苦しみながら、そして何の治療も受けられぬままに亡くなりました。

彼女は死んだ夫の体の上ですすり泣き、その身の上の悲しみと絶望、自暴自棄から乗り越えたといいます。

スバシニーは涙と恐怖を通して、その悲運の日に誓いました。

「誰も私のような運命で苦しむべきではない。 基本的な医療処置が受けられていたら、胃腸炎の発作に過ぎない夫を容易に救うことができたでしょうに。 」

貧困と無神経な病院スタッフが夫を殺した。
こんな悪夢を、他の人々で繰り返してはいけない。

「お金がなかった為に、夫は胃腸炎なんて単純な病気の適切な治療が受けられず、命を落としました。

誰も、貧しいという理由だけで死ぬべきではない。私も、夫のように死んではならない。私はあの、夫が最後に息を引き取った村に、貧しい人々のための病院を建設すると誓ったのです。」

スバシニーに夢や絶望にふける贅沢な時間などありません。4歳〜8歳の4人の子供たちと、何も教育を受けたことがなく読み書きどころかなんのスキルもないスバシニーの、突然の路上生活が始まったのです。彼女の両親兄弟も貧しく、やっと自分たちが食べて生きていけるだけだったので、スバシニーたちを助けることはできませんでした。

スバシニーは5つの家のメイドとして働き始めます。そのうち彼女は、ダーパ村の道端で育った野菜を選んで売ることができることを発見しました。彼女は野菜を売るとメイドとして家事をするよりも多くのお金を稼ぐことに気づきました。 そこで彼女と彼女の子供たちはダパ村に移り、そこで月に5ルピーの小屋を借りました。

彼女はダーパ村で野菜の販売を開始し、徐々にビジネスが成長するにつれて、にぎやかなコルカタに向かいました。 彼女はコルカタ中心部のパークサーカスにある4番橋に路傍の屋台を設置しました。 彼女は月に約500ルピーを稼ぎ始めました。 カリフラワーのシーズン中、彼女はもっと稼げました。 彼女は郵便局に普通預金口座を開設し、できる限り少額のお金を預けました。 時々50ルピー、時には200ルピーを。

彼女は長男アジャイがよく学ぶ子だったので、教育を受けさせるために彼をコルカタ孤児院*に送り出します。そして、残り3人の子供達とダパ*に移り住み、亡くなった夫のように、歩道橋の下で野菜を販売し始めました。

『私はあの、夫が最後に息を引き取った村に、貧しい人々のための病院を建設する』

「自分のボロ小屋だって修理できないのに、どうやって病院を建てるっていうんだい!」

スバシニーの不可能にしか見えない夢を聞いた人々は、彼女をからかい笑い飛ばしました。家族5人を養い、2人の娘の結婚資金*も貯めなくてはならない現実は、スバシニーの心を失わせたに違いない、と村の長老たちは考えました。

しかし、スバシニーは普通の女性ではありませんでした。

そこから20年間、彼女は家事手伝い、肉体労働者、野菜売り手として働きました。 出費をとにかくケチり節約し、貯蓄しました。自分自身には1ルピーも使いません。長男の教育費以外、彼女は貯蓄を続けました。蟻の勤勉さで、少しずつ少しずつ。彼女は、病院を断固として建設するという夢を決して諦めなかったのです。

1992年、スバシニーは生涯貯蓄を利用して、夫の故郷の村タクルプクルのハンスプクルで1エーカー(約4047㎡)の土地を1万ルピーで購入し、彼女も子供たちと一緒に、その土地の近くの空いていた夫の小屋に移り住みました。

スバシニーは村人を集めて、彼らに彼女の計画を話しました。 スバシニーは、病院のための1エーカーの土地を寄付するから、村人たちに、貧しい人々のための薬局用の藁葺き屋根の建物を建てるお金を寄付してほしいと話しました。

村人からの寄付の合計926ルピーです。 物で貢献した村人もいました。竹、ヤシの葉、大量の土、木の板などを提供しました。 最も貧しい人々は、労働力を申し出ました。 こうして、1993年に20フィートx 20フィートの仮設小屋が建設されました!

その後、スピーカーを備えたオートリキシャ*が、そこから半径10 kmの範囲で田園地帯を走り回り、新しく開かれたその診療所で、週に一度でもいいから貧しい人々への無償での治療を提供するよう医師たちに訴えました。そして、村人はドアからドアへと行き、余剰の薬を寄付するよう住民に促しました。

彼女は、できる限りの方法で支援するようコミュニティに訴え、コミュニティも出来ることをやったのです。 彼女の長男アジャイは、知人、友人、組織から5万ルピー*を集めることができました。

ワンルームクリニックが誕生し、これがチャリティーホスピタル’humanityhospital’の始まりです。 隣接する地域からの3人の医師が、無料で病人の診察をするようスバシニーから説得されました。

電話に応じた最初の医師は、ラグパシー・チャタジー博士でした。他の5人は、一般医、小児科医、整形外科、眼科医、ホメオパシーの順で急速に続きました。週に2〜4時間の範囲で、それぞれが無料サービスを提供しました。

1993年の病院オープン初日、ヒューマニティー病院は、’お金を受け取らない’医師たちにより252人を治療しました。アジャイは医師として加わり、病院を拡張しました。サンダーバンスのパタルプラティマに別のユニットを設置したのです。

「私の仕事はまだ終わっていません。」

とスバシニーは言います。

「両病院は、より多くのスタッフとともに成長する必要があります、経験豊富なスタッフを確保する余裕があります。 そしていつか24時間体制の施設に変えたいと思っています。」

彼女の声は誇りに満ちていました。

1995年、病院の基礎石が敷設され、1年後に一般公開されました。 今日、45床の病院は3エーカーに広がり、最高の医師と医療機器を備えています。 貧しい人々のための主要な手術は、Rs.5000未満(7750円未満)で行われます。 軽度の病気は10ルピー(16円)以下で治療されます。 現在、彼女には2つの病院があり、1つはナディア地区ハンスハリの村にあり、もう1つはスンダルバンスにあります。

コルカタの名もなき英雄となったスバシニー。彼女は2018年、パドマ・シュリー勲章*を受賞しました。

「インド政府から認められたことを私は嬉しく思います。 誰も医療処置を拒否されるべきではありません。 この私の認識が他の人々に影響を与え、彼らの社会に還元することを願っています。」

また彼女は共和国記念日の前夜に発表された名誉ある全国賞の5人のベンガル受賞者のうちの1人です。

「政府が私の仕事を認めてくれたことを嬉しく思います。 この私の受賞が、他の人たちに影響を与えて、人々が社会のために一歩踏み出し、少しでも貢献するきっかけになってもらえたら幸いです。

私に関して言わせていただくと、私はずっと前に、すでに受賞していました。この本格的な病院が建設され、最初の患者が正常に治療された時に。

🙏🙏🙏🙏🙏🙏

スバシニーの建設した病院、ヒューマニティーホスピタル
https://humanityhospital.org/

スバシニーの病院への寄付はこちらからどうぞ

(注釈)
*1) 100ルピー、参考までに彼女の夫の亡くなった1971年の通貨価値で換算すると、3,687.9ルピー、約5,700円。(今日のレートだと1ルピーは155〜165円)なおUSドルとインドルピーの貨幣換算が行われ記録が残っているのは1947年からのため、彼女が嫁いだ時の夫の収入の貨幣価値は想像するしかありません。

*2)長男を孤児院に、これは今日でもそうなのですが、貧しくて子供の学校費用が捻出できない親は、アシュラムなどの孤児院に子供を預けます。そこでは衣食住そして教育が受けられるからです。

*3) ダパ、Dhapaは、インドの東コルカタの周辺にある地域です。このエリアは、コルカタ市の固形廃棄物が投棄される埋立地で構成されています。埋め立て地では「ごみ農業」が奨励されています。コルカタ市場の緑の野菜の40パーセント以上はこれらの土地から来ています。昔から貧しいエリアだったことが想像できます。

*4)結婚資金。インドには花嫁持参金というものがあり、その持参金額によっては嫁ぎ先での継母の態度に影響したり、結婚が破綻になったりすると言われています。

*5)5万ルピーの1995年の通貨価値は、2020年の通貨価値でいうとRs.240,740.47=約373,000円

*6)オートリキシャ;3輪タクシー。

*7)パドマ・シュリー勲章 は、インドにおける勲章の一つで、民間人を顕彰する勲章としては4番目の格式を持つ。この勲章は毎年共和国記念日にインド共和国政府によって授与される。


Ranee
スバシニーさんに書かれた記事を読めば読むほど、彼女の意思の強さと美しさに、ただただ頭が下がりました。じゃあ私は、この人生どんなことで人に貢献していこう

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